そこにこたえはないよ。

無意識にパソコンや携帯をみてしまうとき、

【そこにこたえはないよ】と音もなくつぶやくと、我に返ることができます。

パソコンや携帯は

見ている間は安心感を与えてくれますが、見ていないときには分離感を感じるようになります。

パソコンや携帯を見ると知識が増える、社会の状況がわかる、

かもしれませんが、

忙しい忙しい頭をさらに忙しくする前に、

目の前に広がる”今”の穏やかさにほっこり和んでみてください。

してはいけないことはないので、

見ちゃいけないじゃなくって、

ちょっとした変化を。作ってみてください。

かつての望みが叶った今。

かつて、どれだけの人が【あぁ、もし〇〇だったらみんなが幸せになれるのに】と思って奔走したのだろうかと思いました。

 

【もし、車があったら買い物も楽になるし、遠くに旅行にも行けるし、みんな幸せになるだろうな】

【もし、洗濯機があったら、手も荒れずに済むし、自由な時間も作れるし、みんな幸せになるだろうな】

【もし、結核の特効薬が出来たなら、結核で死ぬ人ももいなくなって、みんな幸せになるだろうな】

【もし、誰もが学校に行けるようになったら、国が発展して、みんな幸せになるだろうな】

【もし、美味しいものが普通に買えるお金が稼げるようになったら、みんな幸せになるだろうな】

 

移動手段も、生活用品も、病気の治療も、教育も、金銭的なことも、

たくさんの人の望みを実現して幸せになってもらいたい、

もしくは、たくさんの人が望むことを商機と考えて実現してきた、

その先端に今の私たちがいるのだと思います。

 

そんな今ですら、私は

【ベーシックインカムが現実になって、みんながお金の心配をしなくて済むようになれば、もっと自由に生きられる人が増えてみんなが幸せになるんじゃないだろうか】

などと思ったりしていました。

 

でも、きっとそれが現実になっても、私たちはまた『何か別の要因』を見つけるんだろうな。とふと思いました。

 

【あぁ、そういうことか。】と。

 

結局は、自分の中に焦点をあてて、自分が不満を生み出している何かを溶かすことでしか幸せは実現しないんですね。

私がみんなのために思っていたことは、ただの私の願望でした。

認めさせたい。認められたい。

仲の良くない人たちのやりとりを見ていたとき、どちらが上を取るか、マウンティング合戦だなと思いました。

 

嫌いな人には自分のことを認めさせたい。

好きな人には自分のことを認めてもらいたい。

 

さらに、好きでも嫌いでもない通りすがりの人でも自分のことを認めてもらいたい。

 

たいていの人のこころの奥底にある願いだと思います。

 

でも、この不毛な戦いの渦中で無傷でいられる人たちも沢山います。

それは自分で自分を認めている人です。

自分が好きな人です。

 

誰に何を言われようと、どんな扱いを受けようと、無傷。

自分の存在自体が尊いものだと知っているからです。

 

自分の存在自体が尊いものだと知っている人たちは宝くじに当たったようなものだなと思います。

ほんとうにラッキー。

 

どんなに頭が良くてもわからない人にはわからないし、どんなに頭が悪くてもわかっている人にはわかっている。

大事なことがそういうものでよかったなと思います。

こうそく生活。

こうそく生活。

高速。

拘束。

まわりの人はみんな同じようにこうそく生活を送っています。

今のところ、大多数=正解なのでそれが今の流れに乗っている人です。

 

でも、たぶん、数十年後か数百年後には今みたいな忙しい生活は過去の習慣になっていると思います。

まるで、ちょんまげみたいに。

 

なぜなら、不自然だし、嫌だなと思っている人が多いからです。

そんなのは次第に消えていくものです。

思考は「ほんとうの自分」ではありません

『思考は「ほんとうの自分」ではありません』

 

これはエックハルト・トールさんの本の章タイトルに使われている言葉です。

 

私はこのことを友人から初めて聞いたとき【えっ?ほんとうに?】と思いました。

 

【頭の声がなくなったら私って何?】

【でも、それがほんとうなら、何かいいな。】

【頭の中の声はいつだって、しなくちゃいけないことを指摘してくるし、プレッシャーをかけたり、過去のことを持ち出して来たりするし。】

【でも、思考が自分じゃなかったら自分って何?】

 

ってなってそこから先が未知の世界。

そこは自分で体感しないといけないみたいです。

 

思考は自分ではなく道具。

使わないときはしまっておくといいそうです。

これからどうするか。

アドラー心理学の教えを対話形式の本にした「幸せになる勇気」(岸見一郎・古賀史健著 ダイヤモンド社)の中に、人が陥りやすい物語のパターンとして【かわいそうなわたし】【悪いあの人】というのが出てきます。

気持ちが前に進まないとき、自分の視点からみた前に進めない理由を見つめてしまうようです。

アドラーはそうではなく、【これからどうするか】を語ることが大事だと言っています。

空っぽか、いっぱいか。

友人に教えてもらって ニュー・アース (エックハルト・トール著 サンマーク出版) という本を読みました。

とてもわかりやすくエゴの仕組みが書いてあって、ありがたいなぁと思いました。

今のところ、2回読んでみたのですが、まだ深く読み取れないなと感じるところがあるので、時間をおいてまた読もうと思います。

 

この本の中で、私の体験とリンクすることが書いてあったので紹介したいと思います。

それは、感じることについて。

 

ある日の夕食後、水切りかごの食器を拭いてテーブルに並べていました。

ふと、とても幸せな感覚が湧いてきました。

ただ、食器を拭いて並べているだけなのに、とても満たされていて、いつもの食器がいつもより美しくみえます。

 

その時期ちょうど佐藤初女さんの本を読んでいて「心の貧しい人は幸いである」というキリストの言葉の意味がわからないな~と思っていたところで、【あぁ、「心の貧しい人は幸いである」とはこういうことか】と思いました。

それは例えば、3日間何も食べてなかった人がおにぎりを食べたときに感じる、涙が出るくらいの美味しさや、1週間お風呂に入れなかった人が1週間ぶりにお風呂に入れたときに感じる何ものにも代えがたい温かさ・気持よさと一緒で、食器を並べて拭いているだけでも幸せに思えるほどに私の心には何もない状態(=貧しい)だったのだなと。

 

よく、”今にある”ことの大切さが言われるようになりましたが、こういうことなのだと思います。

過去の幸せをずっとこころに持っていると、今の幸せが感じられません。

というより、いいことでも、悪いことでも、こころをいっぱいにしていると、目の前にあるものがそのままに感じられないと言った方がいいかもしれません。

 

じゃあ、どうしたらいいの?といわれたなら、自分がこころに持っているものと向き合うか、今だけに集中するかのどちらかかなと思います。

体があるのは不思議ですごい。

体があって、この世界を感じることができるってほんとうに不思議ですごいことだなと思います。

私たちが感覚として感じられる範囲はとても限られていますが、だからこそ現れる世界というのがあると思うと、体があるときはこの特別な世界をしっかり楽しみたいなと思います。

そして、よく観察していると、同じつくりの体を持っていても、それぞれに感じ方や見え方が違うのだということに気づかされます。

人の数だけ世界があるというのはその通りなんだなと思います。

想いの訪問者。

あるとき、【愛されたい】という想いが突然やってきました。

【愛されたい】【愛されたい】【愛されたい】【愛されたい】

【愛されたい】【愛されたい】【愛されたい】【愛されたい】

【愛されたい】【愛されたい】【愛されたい】【愛されたい】

【愛されたい】【愛されたい】【愛されたい】【愛されたい】

【愛されたい】【愛されたい】【愛されたい】【愛されたい】

【愛されたい】【愛されたい】【愛されたい】【愛されたい】

【愛されたい】【愛されたい】【愛されたい】【愛されたい】

いったいどれくらいいるのだろう?と思うくらいずっと【愛されたい】は居続けました。

『でも、愛されるってどういうこと?誰かに愛してるって言われること?』と聞くと

『違う。』と答えます。

『誰かに優しくされること?』と聞いても

『違う。』と答えます。

『誰かに抱きしめてもらうこと?』と聞くと、

『それもいいけど、その感じがずっと欲しい。』と答えます。

【愛されたい】【愛されたい】【愛されたい】【愛されたい】【愛されたい】【愛されたい】

思いつく質問はどれも納得してもらえなかったので、【愛されたい】をただ見つめていました。

すると、いつの間にか【愛されたい】はいなくなっていました。

 

その次にやって来たのは、【私はいてもいいの?】という想いでした。

【私はいてもいいの?】【私はいてもいいの?】【私はいてもいいの?】【私はいてもいいの?】

【私はいてもいいの?】【私はいてもいいの?】【私はいてもいいの?】【私はいてもいいの?】

【私はいてもいいの?】【私はいてもいいの?】【私はいてもいいの?】【私はいてもいいの?】

問いかけてきます。

 

”私”が誰のことなのか。よくわからなかったのでただ見つめていました。

【私はいてもいいの?】【私はいてもいいの?】【私はいてもいいの?】【私はいてもいいの?】

【私はいてもいいの?】【私はいてもいいの?】【私はいてもいいの?】【私はいてもいいの?】

【私はいてもいいの?】【私はいてもいいの?】【私はいてもいいの?】【私はいてもいいの?】

【私はいてもいいの?】【私はいてもいいの?】【私はいてもいいの?】【私はいてもいいの?】

 

どれくらいたったか、それまでは固くて触れたくないような【私はいてもいいの?】だったのが

氷のように溶けて見えなくなりました。

傷つきやすいことはありがたいこと。

ある日の夕方、電動草刈りで畑の草刈りをしていたときのこと。

【そろそろ充電が切れるかな。】【もう終わろうかな。】と思いながら、新しい区画に刃を入れた瞬間、草に覆われていた木の枝にはじかれると同時に、目の前で大きくて色鮮やかな芋虫がぐったりしているのが目に入りました。

【あぁ、殺してしまった。】

もう、一瞬で気が萎えて、その日は家に戻り、なくならないこころのちくちくと向き合っていました。

 

数日後、今度は鍬で草取りをしようと庭にでたときのこと。

最初の一振りがまた、大きくて色鮮やかな芋虫にあたってしまいました。

幸いびっくりさせたくらいで殺しはしなかったのですが、同じようなことが2回も続けて…。

 

【私は何を持っているんだろう?】と自分と向き合う機会になりました。

 

私は、生き物を全く殺さないわけではないし、ベジタリアンでもヴィーガンでもありません。

でも、なるべくなら、殺さなくていいなら嬉しいなぁ。と思います。

 

ゴキブリでも蜘蛛でもムカデでもナメクジでも、外で出会う限りは彼らのお家。

家の中で出会ってもなるべく出ていってもらう。のがいいかなと思っています。

誰かが痛い、かゆい、不快な思いをするときは殺すこともあります。

そういうときは淡々と、なるべく感情を持たないように。

 

だから、植物は強いからありがたいなと思います。

多少切っても大丈夫。

密集した木の葉に虫がたくさんつくのは、葉をすいてくれようとしているのかなとも思います。

 

 

 

最近ではHSP(Highly Sensitive Person)という概念が知られるようになりましたが、私はある時まで、まさにHSP でした。

【あの人、本心言ってないなぁ。】とか【この人、顔が笑ってないなぁ】とか【あ、今ちょっと元気になった】とか、ちょっとしたことで変化する人の顔や雰囲気にとても敏感でした。

そして、大勢で遊ぶのがちょっと苦手で、ひとりでいるときは本を読んだり、木の上でぼーっとしたり、虫や植物に話かけたり、というのを好んでしていました。

 

なので、自分の意思とは関係なく、狭い人間関係の中で過ごさなければいけなかった頃は結構苦しいこともありました。

でも、それが自分と向き合う内観のチャンスだと知ってからは、感じやすいという気質はなんと恵まれていることかと思うようになりましたし、大勢の中でも人を見ることばかりをしなくなりました。

 

そんな私が、最近、友人から「ホ・オポノポノ」について書かれた本を借りていいなと思ったことがあります。

それは、こころがざわつく何かが起こったとき、ただ【ありがとう・ごめんなさい・許してください・愛しています】とこころの中で唱えるとその原因となっている記憶をクリーニングすることが出来るというものです。

 

普段はなるべく自分がどんな思いを持っているのかを深く深く感じようとしますが、ときに『大きくて色鮮やかな芋虫を殺してしまう。』ということを深く掘り下げても【よくわからない。】に行きあたるということがあります。

そういうときは、あまり深追いし過ぎず、ホ・オポノポノの【ありがとう・ごめんなさい・許してください・愛しています】を使って、深い気づきは後から来るのに任せるということで放っておけるなと思いました。

 

詳しくはたくさん出ている書籍を読んでみてください。

ホ・オポノポノ公式サイト