対話

ひとりでいるの好き。

久しぶりの晴れの日に、外で庭仕事をしました。

ツバキ系の木には毛虫がつくので、風通しが良くなるように結構切ってしまうのですが、ふと見ると、写真にあるような ちびっこが、あっちこっちで生まれていて、それが可愛すぎて、ひとり悶絶していました。

梅の木もつぼみをいっぱいつけて花を咲かせる準備をしています。

その開花を今か今かと待っているのもとても好きです。

これはウツギの芽。

春にピンクの可愛い花を咲かせます。

この芽もわたしのこころをいっぱいにしてくれました。

どうしてだろう?どうしてこんなにしあわせなんだろう。

植物が好きだからかなぁ?

わからないけど、ただ庭を歩いているだけで【キュン死にするかも】と思うくらい満たされました。

太陽もあたたかかったし。

そういうわけで、わたしはひとりでいるの好きです。

なんというか、特に、外にいるとひとりだという気持ちがしなくて、誰かといるより自由な感じがします。

気の使い過ぎか。。。

人を責めないネパールの人

今朝、炊飯器の予約入れ忘れでご飯が炊けていませんでした。

【あっちゃ~(^-^;】と思いながら冷やご飯を温めたりしていたときに、ふと、友人から聞いたネパールの人たちのお話を思い出しました。

それは、”ネパールの人たちは小さな失敗は占いのせいにして人を責めない。”というお話。

例えば、道で車をこすった人がいたら、

「今日は占いであんまりよくない日らしかったから。」と言うと、

「それは仕方ないね。」となるそうです。

何でもかんでも占いのせいにされると困りますけど、
怒りや責め、罪悪感、羞恥心などなど、マイナスの感情をつくり出したりしないで
占いのせいにして軽くながすのは素敵だなと思いました。

何かことが起こったとしても、たいていはどうにかなるものです。

スイッチを入れ忘れても、ご飯は有難い早炊き機能で30分以内に炊き上がりました。

いつもと違うことが起きるのも何か気づきのきっかけになっていいものです。

そんなわけで、何か小さな失敗に出会うことがあったら【今日はそういう星まわりだから仕方ないのかも】とさらっと流してみてください。

そこにこたえはないよ。

無意識にパソコンや携帯をみてしまうとき、

【そこにこたえはないよ】と音もなくつぶやくと、我に返ることができます。

パソコンや携帯は

見ている間は安心感を与えてくれますが、見ていないときには分離感を感じるようになります。

パソコンや携帯を見ると知識が増える、社会の状況がわかる、

かもしれませんが、

忙しい忙しい頭をさらに忙しくする前に、

目の前に広がる”今”の穏やかさにほっこり和んでみてください。

してはいけないことはないので、

見ちゃいけないじゃなくって、

ちょっとした変化を。作ってみてください。

かつての望みが叶った今。

かつて、どれだけの人が【あぁ、もし〇〇だったらみんなが幸せになれるのに】と思って奔走したのだろうかと思いました。

 

【もし、車があったら買い物も楽になるし、遠くに旅行にも行けるし、みんな幸せになるだろうな】

【もし、洗濯機があったら、手も荒れずに済むし、自由な時間も作れるし、みんな幸せになるだろうな】

【もし、結核の特効薬が出来たなら、結核で死ぬ人ももいなくなって、みんな幸せになるだろうな】

【もし、誰もが学校に行けるようになったら、国が発展して、みんな幸せになるだろうな】

【もし、美味しいものが普通に買えるお金が稼げるようになったら、みんな幸せになるだろうな】

 

移動手段も、生活用品も、病気の治療も、教育も、金銭的なことも、

たくさんの人の望みを実現して幸せになってもらいたい、

もしくは、たくさんの人が望むことを商機と考えて実現してきた、

その先端に今の私たちがいるのだと思います。

 

そんな今ですら、私は

【ベーシックインカムが現実になって、みんながお金の心配をしなくて済むようになれば、もっと自由に生きられる人が増えてみんなが幸せになるんじゃないだろうか】

などと思ったりしていました。

 

でも、きっとそれが現実になっても、私たちはまた『何か別の要因』を見つけるんだろうな。とふと思いました。

 

【あぁ、そういうことか。】と。

 

結局は、自分の中に焦点をあてて、自分が不満を生み出している何かを溶かすことでしか幸せは実現しないんですね。

私がみんなのために思っていたことは、ただの私の願望でした。

認めさせたい。認められたい。

仲の良くない人たちのやりとりを見ていたとき、どちらが上を取るか、マウンティング合戦だなと思いました。

 

嫌いな人には自分のことを認めさせたい。

好きな人には自分のことを認めてもらいたい。

 

さらに、好きでも嫌いでもない通りすがりの人でも自分のことを認めてもらいたい。

 

たいていの人のこころの奥底にある願いだと思います。

 

でも、この不毛な戦いの渦中で無傷でいられる人たちも沢山います。

それは自分で自分を認めている人です。

自分が好きな人です。

 

誰に何を言われようと、どんな扱いを受けようと、無傷。

自分の存在自体が尊いものだと知っているからです。

 

自分の存在自体が尊いものだと知っている人たちは宝くじに当たったようなものだなと思います。

ほんとうにラッキー。

 

どんなに頭が良くてもわからない人にはわからないし、どんなに頭が悪くてもわかっている人にはわかっている。

大事なことがそういうものでよかったなと思います。

こうそく生活。

こうそく生活。

高速。

拘束。

まわりの人はみんな同じようにこうそく生活を送っています。

今のところ、大多数=正解なのでそれが今の流れに乗っている人です。

 

でも、たぶん、数十年後か数百年後には今みたいな忙しい生活は過去の習慣になっていると思います。

まるで、ちょんまげみたいに。

 

なぜなら、不自然だし、嫌だなと思っている人が多いからです。

そんなのは次第に消えていくものです。

思考は「ほんとうの自分」ではありません

『思考は「ほんとうの自分」ではありません』

 

これはエックハルト・トールさんの本の章タイトルに使われている言葉です。

 

私はこのことを友人から初めて聞いたとき【えっ?ほんとうに?】と思いました。

 

【頭の声がなくなったら私って何?】

【でも、それがほんとうなら、何かいいな。】

【頭の中の声はいつだって、しなくちゃいけないことを指摘してくるし、プレッシャーをかけたり、過去のことを持ち出して来たりするし。】

【でも、思考が自分じゃなかったら自分って何?】

 

ってなってそこから先が未知の世界。

そこは自分で体感しないといけないみたいです。

 

思考は自分ではなく道具。

使わないときはしまっておくといいそうです。

同一化

エックハルト・トールさんの著書の中に、

自分と何かを同一化して”私のもの”とすることが

人のジレンマを生み出すとかいてあります。

 

2020年の日本野球、パリーグはソフトバンクホークスが優勝しました。

これで喜んだ福岡の人たちは大勢いたと思います。

”私のチーム”が優勝したと思ったからです。

 

もし、他のチームが優勝していたら、

”私のチーム”が負けたと思って悔しがった人たちがいたと思います。

 

これと同じことを”私の顔”とか”私のこども”とか”私の仕事”とか

色々なもので一喜一憂しているのが私たちなんだなと、

昨日ソフトバンクホークスの優勝をみて思いました。

 

これをわかっていて、自ら楽しむなら

喜びも悲しみも思い切り味わった後で

軽く手放すことが出来ると思うのですが、

 

これを知らずに”私のもの”としていると

いつまでもいつまでも、永遠には続かない喜びや悲しみに

執着してしまうのだなと思います。

 

知っていたとしても、手放すのが難しい”私のもの”はあります。

”私の体”や”私のこども”は特にそうだと思います。

だから、それらとの毎日を意識的に思う存分味わうのがとっても大事だと思います。

消えたい・死にたいときは

消えたい・死にたいときは、体を対象にしてしまうと大変なので、

消えたい・死にたいと言っている頭の声を対象にします。

 

自分と頭の声を同化しないように

【あれ?また頭の声が消えたい・死にたいって言ってる。】

と、ちょっと消えたい・死にたいと距離を取ってみます。

 

すると、全く体が関係ないことがわかります。

体は大切にしておく方が無難です。

 

【消えたい・死にたいのならあなたがそうすればいいよ。】と思いながら

頭の声を消してしまいます。

 

頭の声は自分を守ろうという気持ちで色々な言葉を次から次にかけてきます。

でも、もしそれが楽しくないことなら、距離をとって眺めて無視しても問題はありません。

スルーです。

あの人を変えたいと思うとき。

【あの人を変えたい。】と思うとき、

今のその人が駄目だと思っている”私”がいるとわかります。

 

【もっと自信を持てばいいのに】

【もっと人と仲良くしたらいいのに】

【もっと運動したらいいのに】

 

書き出してみて、よ~く眺めると”私”のことがよくわかります。

 

【世界を変えたい】と思うときもそうです。

今のこの世界が駄目だと思っている”私”がいるとわかります。

そして、よ~く眺めると”私”のことがみえてきます。