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Just do it.

SNSの広告動画で、小さな女の子が興奮してこう叫んでいました。

”Just do it! やるのよ!

ただやりなさい!

夢を叶えるの!

他人の目なんて気にしちゃ駄目!

たった一度の人生を楽しまなくちゃ!

今始めなくていつやるの?

やるしかない! Just do it!”

これを目にした後に、今ミャンマーで起きている内紛のニュースを観て、軍のトップにいる人はまさに今Just do it.自分の夢を叶えるために奮闘しているんだなと思いました。

他人の目なんて気にせずに。

恐らく、自分と周りと国の幸せのために。

一見良さそうに見えるものの裏にある矛盾と言っていいのか、言葉であらわし辛いですが、

何かをしようと思うときは必ず動機があるもので、

一端 それがどこから来るのか感じてクリアにして、

こころに何も置かないところまで戻ってから始めるのがいいなと思いました。

勇気

蚊が睡眠を妨げる季節がやってきました。

昔【蚊はなんて勇気があるんだろう。殺されることも厭わずに血を吸いに来るなんて。】と思っていた時期がありました。

でも今では【自我がほぼないからなんだな~】と自然を観ていて思います。

蚊は「これは私の獲物よ!」なんて言わないし、「私の子どもを残さなくては!」なんて思ってないし、「私は死ぬのが恐いから夜しか人に近づかないの」なんて考えてません。

人に飼われている動物は自我が強くなるみたいですが、自然の中にある虫も動物も、ほぼただ命がある(生まれた)から生きているのだなと思います。

鳥は虫を食べるし、虫も虫を食べるし、それが普通。

恨みも恐怖も後悔も懺悔もなくて、これが自然なんだなと思います。

勇気は”私”をなくすために必要なものなんだなと思いました。

戦いがないと面白くない?

春休み、遊びに来ていた姪っ子たちはひたすらアニメを観ていました。

どれをみても、戦いがないアニメはありません。

「ねぇねぇ、どうして戦いばっかりなのかねぇ?」と聞いてみたら、

「戦いがないと面白くないからじゃない?」と返ってきました。

確信をついてるな~と思いました。

戦って、正義(自分サイド)が勝つ。

この楽しさ。

自分に不快な感情をもたらすものはいずれ苦しい目に合い、私が正しいことが証明されるのだ。

だから、私はそれが証明されるときまで、戦い続け、耐え続けるのだ。

その道のりで、信頼できる仲間や師匠と出会い、私は成長するのだ。

そして、最後に必ず幸せを手に入れるのだ。

このパターン。

そんなことしなくても幸せは自分の内にあるのにね~。

でも、筍みたいに幸せを覆いつくしている皮を向かないと、幸せを幸せと感じられない心。

【あれ、何かおかしいぞ】とふと立ち止まる時が来るまで、優しく穏やかな気持ちで彼女たちをみていたいな~と思いました。

どうしてキリスト教では懺悔すると救ってもらえるか。

どうしてキリスト教ではどんな悪いことをしても懺悔すると救ってもらえるんだろう。

とても不思議でした。

でも、今はわかるような気がします。

なぜなら、自分を責めるということも、自己のアイデンティティの強化に繋がるからです。

【あの時ああしていたら】【あの時あんな事をしなければ】と過ぎたことを思い続けている自分がいる。

それが自分なんだ。と。

目の前にないことをどれだけ抱えていてもこころは重たくなるばかりです。

とはいえ、そのずっと抱えているものを抱えていたい

自分の本音に目を向けないと、

簡単には手放せるものではないとも思います。

そういう意味で、キリストをこころの底から信じている人なら

ただ懺悔すれば救われる、何をしたとしてももう忘れていい

という赦しが約束されているのはありがたいものだなと思います。

もうここに それはない。

過去の色んな経験からの感情をぎゅっと握りしめていた人が、

”はっ”と『もうここに それはない。』と気づいた瞬間

【あぁ、よかったなぁ。】と思います。

ただ、ただ、【よかったなぁ。】と。

いのちのテンポ。

どうして自然や植物に安らぎを感じるのか、ふと、こんな考えが浮かんできました。

植物は動物のように動くことが出来ません。

脳と呼ばれる器官もありません。

その代わり、傷つけられても新しく芽吹くことが出来、死に対して動物ほど恐れを抱くこともありません。

お陰で、急ぐことなく、いのちのテンポのままに育っていくことができます。

人から見ると、ゆっくり、ゆっくり、のようにみえるこのテンポが いのちのテンポだという気がします。

人がいくら急いでも、このテンポが全体のテンポなので、抵抗を感じる気がします。

気がせくときは植物からいのちのテンポを感じてみるといいかもしれません。

すると、自然に、無理なく花を咲かせ、実を結ぶ準備が出来る気がします。

不毛な戦いは終わり。

体といのちがあって、思考が生まれることがわかりました。

そしたら、思考の優劣、上下を取り合う戦いは不毛なことがわかりました。

体といのちがのびのび、元気に楽しく過ごせることが一番。

「われおもう、ゆえに、われあり。」ではなく、

「われあり。ゆえに、われおもう。」でした。

いのちは感じられる。

前回書いた意志の力を感じていると【これが”いのち”なんだ】という気持ちがします。

【これがあるから体は動くし、思考も生まれる。死ぬときはこの”いのち”が体をぬけるだけなんだ】と。

思考は”いのち”がないと生まれません。

「生きている意味がない」とか

「生きている価値がない」とか

”いのち”が体をうごうごしているから生きている という単純でありがたい事実から外れています。

”いのち”があってこそ生まれる思考が”いのち”を攻撃するのは、

宿主の中でしか生きていけないのに、宿主を攻撃するウィルスのようなものです。

本来ならウィルスも私たちと共存する存在だったのに、今流行りのコロナウィルスは思考のように【私こそが最強だ】と勘違いしてしまったのかもしれません。

意志の力>思考

当たり前のこと過ぎてみなさんは知っているかもしれませんが、私はつい最近、思考よりはるかに壮大な意志の力に気づきました。

人によってあらわす言葉は違う思いますが、ここで言う意志の力は、例えば、歩くときにずっと【歩く】と思っていなくても歩かせてくれたり、心臓や内臓なんかを勝手に動かしてくれている力のことです。

意志の力はことばがないので、あるのはわかっていましたが、改めて考えてみることもありませんでした。

でも、ある時、急に、その凄さに気づいて驚いたのです。

今、このブログを書いている間も、頭の中のことばを文字にするのに勝手に手を動かしてくれています。(ベースで体の生体機能を保ちながら!)

意志の力については、前に人から言われたことがある気もするけど、その時は言葉がしっくりこなかったのか、最近の気づきみたいに腑に落ちなかったです。

何にしても、タイミングというのがあるので、今それが腑に落ちるときだったんだなと思います。

無言のはたらき・意志の力 恐るべし。

ひとりでいるの好き。

久しぶりの晴れの日に、外で庭仕事をしました。

ツバキ系の木には毛虫がつくので、風通しが良くなるように結構切ってしまうのですが、ふと見ると、写真にあるような ちびっこが、あっちこっちで生まれていて、それが可愛すぎて、ひとり悶絶していました。

梅の木もつぼみをいっぱいつけて花を咲かせる準備をしています。

その開花を今か今かと待っているのもとても好きです。

これはウツギの芽。

春にピンクの可愛い花を咲かせます。

この芽もわたしのこころをいっぱいにしてくれました。

どうしてだろう?どうしてこんなにしあわせなんだろう。

植物が好きだからかなぁ?

わからないけど、ただ庭を歩いているだけで【キュン死にするかも】と思うくらい満たされました。

太陽もあたたかかったし。

そういうわけで、わたしはひとりでいるの好きです。

なんというか、特に、外にいるとひとりだという気持ちがしなくて、誰かといるより自由な感じがします。

気の使い過ぎか。。。