2020年 11月 の投稿一覧

プラケーター(慰め役)・イネイブラー(支え手)

必要とされたい人。

誰かを助けたい人。

自分を後回しにして、尽くす人。

誰かの役に立つことでしか自分の存在価値を認められない人。

怒りの感情が乏しい人。

そんな人はプラケーター(慰め役)やイネイブラー(支え手)かもしれません。

子供の頃に、辛い目に合っている家族の話を聞いたり、仲を取り持つことで家族を支えた経験を持つ人にみられるプラケーター(慰め役)。

ギャンブルやアルコール依存など精神的な病気を抱えた家族や知り合いの肩代わりをしたり、後始末を請け負うイネイブラー(支え手)。

そんな言葉があることを初めて知りました。

そして、私はプラケーター(慰め役)だったなと思いました。

自分が人助け以外何をしたいかわからなかったし、怒りを感じることはほとんどなく、全部悲しみでした。

でも、自分の声を聞くようになって、自分の内側が抱えている物語に気づいて、
ほんとうはみんな真っ新で、その上に物語を作っているんだとわかってから、
過去の物語は終わりました。

誰も助けなければいけない可哀想な人ではないし、何があっても大丈夫。

それはほんとうに有難いことだと思います。

虚無、こころの穴の作り方

ソフィア・コッポラ監督の『ロスト・イン・トランスレーション』という映画を観て思いました。

虚無は自分が他の人と違うところを見つけて【あの人とは分かり合えない】という壁を作ることで出来るんだなと。

映画は、アメリカから仕事や旅行で別々に日本を訪れた男女2人がホテルで知り合い、お互いの虚無に共感して仲良くなっていくという物語です。

その中で、
女「どうして日本人はLとRがわからないの?」
男「わざとやってるんだよ。」
という会話がありました。

アメリカから来た2人はLとRの区別がある世界に住んでいて、日本人はそれがない世界に住んでいる。
2つの言語を使っている人たちは分かり合えない。

そう感じているように思えました。

こころにどこか埋まらない穴があるような気がしているとき、そうやって、人と自分が違うところを見つけて分かり合えないという壁を作っているのかもしれません。

わがままなあの人と私は違う。
バカなあの人と私は違う。
嘘つきなあの人と私は違う。
可愛いあの人と私は違う。
ブサイクなあの人と私は違う。
お金持ちのあの人と私は違う。
ケチなあの人と私は違う。
悪いあの人と私は違う。
働いてないあの人と私は違う。
結婚してないあの人と私は違う。
子どもがいないあの人と私は違う。
親がいるあの人と私は違う。
健康なあの人と私は違う。
暇なあの人と私は違う。
才能があるあの人と私は違う。
空気読めないあの人と私は違う。

優越でも卑下でも、どちらの視点からでも壁は作れます。
そして、それをもとに【私とあの人とは分かり合えないのだ】と思うことができます。

でも、それはまぼろしです。
まぼろしと気づくと壁はなくなって、虚無、こころの穴は満たされていきます。

罪悪感はいらない。いい思い出も手放す。

アドラー心理学の教えで人が陥りやすい物語のパターンとして【かわいそうなわたし】【悪いあの人】というのがあると書きました。

これにプラスして【悪いわたし】【かわいそうなあの人】のパターンもあると思います。

【あの時私が助けてあげていたら】とか【私のせいであの人は自由に生きられなかった】とか、物語にあわせて色々な【悪いわたし】と【かわいそうなあの人】が作られますが、自分を責めるのと他人の悪口を言うのは同じです。

人の悪口は絶対言わない出来たように見える人でも、自分の悪口を言っていたら一緒です。

どちらもいりません。

まず、他の人を勝手に”かわいそうな人”にしませんように。お願いします。

それから【あの時私が・・・】とか何とか思考が責めてきたら、【ほうほう。そう思うのね~。OK】と受け入れて流してください。

【私はいない方がいい】とかそういう思考も同じく【ほうほう。そう思うのね~。OK】と受け入れて流してください。

いつまででも過去に囚われていたら、今を生きられません。

同じように、楽しかったり、嬉しかったりした素敵な思い出も、それにずっとしがみついていたら今を生きられません。

感情はその瞬間に素直に、ひたすらに味わって、流します。

美味しいものを食べて、栄養を吸収したら、排せつします。

甘いものも、辛いもの、苦いものも、美味しくいただいたら、溜めておかないで流します。

そして、目の前の今に集中します。
今はとっても新鮮で何が起こるかわかりません。

全て見逃さないようにしたいものです。

基準を『ない』にするか『ある』にするか

私たちは体を、名前を、容姿を、声を、能力を、家族を、所有物を、いろいろなものを【自分のもの】と思っています。

それは、そういう社会に生まれて育ってきたからです。

でも、根底の感じ方には2種類ある気がします。

それは、もともとは『何もない』と感じている人と、『ある』のが当たり前だと感じている人です。

『ない』を基準にすると、『ある』ことが驚きになります。

『ない』を基準にすると、ないのが普通なので、手放すのが簡単です。

『ない』を基準にすると、失うものはなにもありません。

『ない』を基準にすると、少し持っているだけで『ある』になります。

反対に、『ある』を基準にすると、ないのが不満になります。

『ある』を基準にすると、手放すのが恐くなります。

『ある』を基準にすると、失うものが出来ます。

『ある』を基準にすると、少し持っていても『ほとんどない』になります。

どちらかというと『ない』を基準にする方が楽です。

でも、楽じゃなくても大丈夫で、結局はどちらでもいいのかもしれません。

『はてしない物語』を作るわたしたち。

ミヒャエル・エンデの小説「はてしない物語」( 岩波少年文庫 )。

主人公は太っていて、自分に自信がなく、早くにお母さんをなくした少年です。
お父さんもお母さんをなくして以来、ずっとこころを失ったような状態で少年に関心がありません。

その少年が、物語の後半に本の世界に入り、主人公として自分の物語を作り始めます。

まず彼は、姿の美しい青年になります。

次に【強さが必要だ】と強さを手に入れたことを実感できるような物語を作ります。

それが手に入ると【勇気も必要だ】とまた物語を生み出します。

そうやって、どんどん、どんどん、自分の理想に近づくために物語を作り出して課題をクリアしていきます。

でも、それと引き換えに、主人公はもとの世界の記憶をひとつづつ忘れていきます。

最後にどうなるか。は、物語を読んでもらえばいいと思いますが、『現実の世界でも私たちは自分の作り出した物語の中に気づかないうちに入り込んでいるだよ。』とエンデは言っているような気がしました。

不動の「山」はどこにもない。

友人と話をしていて、思考が作り出す世界とありのままの世界の話になりました。

例えば、「山」。
「山」という言葉を聞いてどういうイメージが浮かんでくるでしょうか。

木の茂ったこんもりした「山」を思い浮かべる方もいるでしょうし、ヒマラヤのような切り立った「山」を思い浮かべる方もいるかもしれません。

それぞれに、私たちは「山」という言葉から「山」を思い浮かべます。

けれど、よーく考えてみると「山」はどこにもない。のです。

「山」にぐっと近づいてみてください。

土の重なりのことを「山」と呼ぶのでしょうか。
木や草が茂っている土の重なりのことを「山」と呼ぶのでしょうか。


だとしたら、「山」は物体ではなく、状態です。

「状態」とは『ある時点でのありさま。』のこと。
刻々と移り変わります。

こんな風に、不動であり続けるように見える「山」も変化しています。



私たちは言葉で、ある時点でのありさまを切り取ったイメージ(概念)を投影して変わらないものだと思い込み、変わらないものがある世界を思考で作り出しています。

でも、ほんとうに、ほんとうに、みていくと、全部同じことが言えます。

それは、どこにもない。のです。



今、私の手もとにある、例えば「本」でも、紙のことを、文字のことを、「本」と言うのでしょうか。

紙が重なって、その上に文字が書かれていて、それがまとまったもの、その状態を「本」と呼んでいます。

じゃあ、「紙」は?じゃあ、「文字」は?

とやっていくと、全部、何かが特定の状態をとったときのことを言葉で切り取って、それがあるように見せかけていますが、よくみていくと、それはどこにもない。にたどりつきます。

不思議です。

人を責めないネパールの人

今朝、炊飯器の予約入れ忘れでご飯が炊けていませんでした。

【あっちゃ~(^-^;】と思いながら冷やご飯を温めたりしていたときに、ふと、友人から聞いたネパールの人たちのお話を思い出しました。

それは、”ネパールの人たちは小さな失敗は占いのせいにして人を責めない。”というお話。

例えば、道で車をこすった人がいたら、

「今日は占いであんまりよくない日らしかったから。」と言うと、

「それは仕方ないね。」となるそうです。

何でもかんでも占いのせいにされると困りますけど、
怒りや責め、罪悪感、羞恥心などなど、マイナスの感情をつくり出したりしないで
占いのせいにして軽くながすのは素敵だなと思いました。

何かことが起こったとしても、たいていはどうにかなるものです。

スイッチを入れ忘れても、ご飯は有難い早炊き機能で30分以内に炊き上がりました。

いつもと違うことが起きるのも何か気づきのきっかけになっていいものです。

そんなわけで、何か小さな失敗に出会うことがあったら【今日はそういう星まわりだから仕方ないのかも】とさらっと流してみてください。

そこにこたえはないよ。

無意識にパソコンや携帯をみてしまうとき、

【そこにこたえはないよ】と音もなくつぶやくと、我に返ることができます。

パソコンや携帯は

見ている間は安心感を与えてくれますが、見ていないときには分離感を感じるようになります。

パソコンや携帯を見ると知識が増える、社会の状況がわかる、

かもしれませんが、

忙しい忙しい頭をさらに忙しくする前に、

目の前に広がる”今”の穏やかさにほっこり和んでみてください。

してはいけないことはないので、

見ちゃいけないじゃなくって、

ちょっとした変化を。作ってみてください。

かつての望みが叶った今。

かつて、どれだけの人が【あぁ、もし〇〇だったらみんなが幸せになれるのに】と思って奔走したのだろうかと思いました。

 

【もし、車があったら買い物も楽になるし、遠くに旅行にも行けるし、みんな幸せになるだろうな】

【もし、洗濯機があったら、手も荒れずに済むし、自由な時間も作れるし、みんな幸せになるだろうな】

【もし、結核の特効薬が出来たなら、結核で死ぬ人ももいなくなって、みんな幸せになるだろうな】

【もし、誰もが学校に行けるようになったら、国が発展して、みんな幸せになるだろうな】

【もし、美味しいものが普通に買えるお金が稼げるようになったら、みんな幸せになるだろうな】

 

移動手段も、生活用品も、病気の治療も、教育も、金銭的なことも、

たくさんの人の望みを実現して幸せになってもらいたい、

もしくは、たくさんの人が望むことを商機と考えて実現してきた、

その先端に今の私たちがいるのだと思います。

 

そんな今ですら、私は

【ベーシックインカムが現実になって、みんながお金の心配をしなくて済むようになれば、もっと自由に生きられる人が増えてみんなが幸せになるんじゃないだろうか】

などと思ったりしていました。

 

でも、きっとそれが現実になっても、私たちはまた『何か別の要因』を見つけるんだろうな。とふと思いました。

 

【あぁ、そういうことか。】と。

 

結局は、自分の中に焦点をあてて、自分が不満を生み出している何かを溶かすことでしか幸せは実現しないんですね。

私がみんなのために思っていたことは、ただの私の願望でした。

認めさせたい。認められたい。

仲の良くない人たちのやりとりを見ていたとき、どちらが上を取るか、マウンティング合戦だなと思いました。

 

嫌いな人には自分のことを認めさせたい。

好きな人には自分のことを認めてもらいたい。

 

さらに、好きでも嫌いでもない通りすがりの人でも自分のことを認めてもらいたい。

 

たいていの人のこころの奥底にある願いだと思います。

 

でも、この不毛な戦いの渦中で無傷でいられる人たちも沢山います。

それは自分で自分を認めている人です。

自分が好きな人です。

 

誰に何を言われようと、どんな扱いを受けようと、無傷。

自分の存在自体が尊いものだと知っているからです。

 

自分の存在自体が尊いものだと知っている人たちは宝くじに当たったようなものだなと思います。

ほんとうにラッキー。

 

どんなに頭が良くてもわからない人にはわからないし、どんなに頭が悪くてもわかっている人にはわかっている。

大事なことがそういうものでよかったなと思います。